2011年3月に発生した福島原発の事故発生後、現在も仮設住宅等での避難生活を強いられている被災地の方々の状況をお伝えすると共に、支援の呼びかけなどを行わせて頂いております。


by momofukuoka
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私は、被災者の行く末を案じておりまして、被災者を後継者に委ねて、被災者が安心して頂けます事を願っております。余りにも過酷な被災者の年月です。生き地獄そのものです。国をあげての集団殺害、しかもジワジワと、生活も、住む土地も失わせて、家族もバラバラに引き裂いて、貧困と、病い、孤独、虐め、人権を失わせて、最後には高齢者を動物達の住む荒れ地に帰して、店も病院も無く生活出来ない環境に、「被災者達が、後はしてください」と丸投げされて、資金も援助も無く、おまけに被災者の方には、懐かしい幼い時からの思い出が詰まって、美しく楽しく幸せだった故郷、視るも哀れな悲しい荒れ地と廃墟に化したわが家、祖先が眠る荒れた墓、思い出の場所がみな廃墟に化した姿を見た時の、悲しみとショックの深さは想像を絶するものだったでしょう。せめて、動物の駆除や人が住める環境に整っているべきでしょう。


被災者は言います。


「若者は帰らないのだから、いずれ年寄りは皆死んで、無人の町になる。廃墟になって忘れられていく、原発のことも国民から忘れられて行く。国は最初からそれを予定していたのだと、今それが判った」と。


福島被災者は苦しんで亡くなって行きます。被曝の影響や心労と過酷さで倒れた人が多いです。これは国を挙げての殺人行為ではないでしょうか?


○○様。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。


福岡百子     


by momofukuoka | 2017-12-10 06:04 | 福島の被災地の現状

原発事故当時の被災者

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターでさまざまな想いや、被災者の声をつぶやいております。そのツイートの中から、被災者の声をご紹介していきます。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です。〉


11月14日  2011年3月12日、13時36分に1号機で水素爆発が発生したことを、福島の市町村長達には知らせが有りませんでした。その為に、爆発音を聴いた人もいましたが、知らなかった為に自覚がなく、子供達は外で無邪気に遊んでいました。浪江町の方々は運悪く、放射能の流れに添って流れる方向に避難誘導されたため、放射能を浴びる事になりました。爆発や放射能汚染情報を即、市町村長に知らせてくれれば、こんなに被爆被災者は出なかったのに。と被災者は悔しがりました。

11月15日  2011年7月福島被災者の支援をする為に朝日新聞の被災者の声をみて、福島県庁に電話をして避難所を教えて貰い、裏磐梯のホテルに避難して居る、大熊町の被災者の支援から私の支援活動は始まりました。被災者から状況を聞いて驚きました。住まいはお客には接しない所、シーツの交換もされず、寝巻き無し、ポットにお湯が入った魔法瓶。それだけでした。被災者は着替える下着も服も無く、部屋掃除は自分達で。たまに風呂に入れる事に満足してました。朝食事は卵のトロトロ焼き1スプーン、親指代のソーセージ2本、味噌汁とごはんのみ。昼飯は1品(例えば、カレーとかどんぶり物)のみ。夕食は朝と同じ様な物。野菜、果物、牛乳、おやつ、お菓子、お茶は無かった。トイレットペーパー、テッシュは自腹で買わされた。被災者はホテルに居ながら何キロも痩せたとのこと。被災者は散歩しながら山菜を採り、ホテルの魔法瓶の湯で茹でて、皆で分けあって食べた、と言います。当時国からはホテルに1人5千円を支払われていたと聞いてました。ホテルは猫ババしたと私は思いました。私の失敗は被災者に食べ物について聞かなかった事でした。今でも私の胸は痛みます。被災者は「寝る所が在り、痩せたけど、餓死をしなくて済んだので、感謝です。」私が贈った饅頭を、皆が泣きながら食べたのが忘れられない、と。

11月16日  裏磐梯のホテルに避難した人に普通の物資支援は届かない為に、被災者皆が用意されたバスに乗り、2時間かかって会津の支援配付所に着いた時には、残っている品物は殆ど無くて、被災者は行かなくなったそうです。私は思いました。「支援所には沢山のボランテアが居られるのだから、1人の運転手と1人の荷物降ろす人さえ居れば、出来る事だから、ボランテアの人が各避難所を廻って支援配りをすれば良いのに。何故、行政は自分達は動かず、被災者を動かす事ばかり考えるのか?[平等]がモットーの様だけど、支援が届く所と届かない所が在ってそれこそが不平等ではないのか?」

11月17日  私が関わった初めての被災者は裏磐梯のホテルに避難して苦しんで居られた大熊町の被災者でした。私は人数分のポリ袋にいろいろなお菓子を詰め込んで、手作りカードに、励ましの一言と私の名前、住所、電話番号を書き込み、「困ったことが有りましたら遠慮なくご連絡ください」とカードに書き、お菓子を入れた袋に入れて、リボンを付けて、1人1人に渡して貰いました。その甲斐があって被災者個人と結ばれる様になりました。ホテルでの避難は9月末迄と言ってたのに、ホテルの都合で急に8月末迄で出て行って欲しいと言われ、慌てて行政は空いてる家を探して、被災者1人1人は入れられてしまいました。粉引き小屋の上が住居となった人、風が吹きさらしで寒さと音が激しいと言う人も居ます。バラバラにされた被災者は孤独に耐え、原発の日から苦しみの連続です。家族は引き裂かれ、心安らぐ時が無く、1度も熟睡をしたことがない。将来の不安、いつも怯え今も悪夢で悩まされると。

11月19日  2011年12月年末近ついた頃、あちこちの支援所に物資が余っていて困っているとのテレビの報道を見て、福島には物資が届かず困っているのを知っていた私は、既に親しくなっていた役場の課長に電話し「役場同士で話をして余っている物資を廻して貰っては如何でしょうか」と伝えると、「県民から貰った支援は県内で使わねばならず、他県に廻すことが出来ないのが日本の仕組みなので、そこが難しいのだよ」の返事に唖然としました。こんなに非常時の時にも融通が効かないのが日本なのか?支援が届かない福島の被災者はどうなるわけ?余りにも悲し過ぎる日本の姿です。

11月19日  「仮設住宅は閉鎖されるので、やむなく長年悲しみを支え合った仲間と離れ1人自宅に帰りました。所が7年近く留守した自宅は全財産がネズミにかじられ、覚悟はしてましたが悲惨な状態でショックでした。一生食べられると保管してたお米も、何もかもネズミに食べられて。全財産を捨てたら疲れ果てて。これから布団から食器から何もかも買わなければ成りません。」昨夜聞いた被災者の声です。皆様。余りにも悲惨過ぎませんか?皆様。助けてください。福島の被災者に目を向けて、少しでも救ってください。

11月22日  2011年10月頃から被災者の仮設住宅への移動が始まりました。日赤の方の話です。「異例の大災害だった為に、大手の住宅建築会社だけでは間に合わない為に、国は住宅を作った事の無い建設会社にも仮設住宅のマニュアルを渡し、仮設は2年持てば良いとの事でマニュアルに基づいて作ったとの事だから床が落ちたり、隙間があったり、カビが生えたり、強風で家が揺れたり、寒さ、暑さが有ってもしょうがない」と。皆様、しょうがないで済む状態では無いでしょう?被災者は行政に訴えたけど、無視されたり、応急修理で我慢を強いられました。2年の筈が6年も悪環境に耐え被災者は病に倒れました。

11月23日  仮設住宅に被災者が住み始めた頃、被災地の周りの住民は放射能を撒き散らすとして嫌がりました。被災者達が散歩すると、「家の野菜が売れなくなるから、歩くな」と言われたり、学校ではバイ菌扱いされたり、買い物をしに店に行くと、篭の中をジロジロと覗かれたり、大声で「あんた達は良いね、お金を貰って生活をしてるのだから」と言われて買い物に行けなくなったり、自宅に籠って鬱病になった被災者は多いです。挨拶したら、「近寄らないで!」と言われ、借り上げ住宅の人は誰も友が居ないので、情報も入らず孤独になって、福島人を隠し知られないようにし、6年過ぎても1人も友が出来ないとの事。白い目で見られ続け、心身疲れ果てボロボロになったと。福島被災者が新車を買うと、贅沢と言われ、車は傷つけられ、行き場が無くて仮設のベンチに座っていると、「昼間から遊んでいる」と。被災者は不便な所に住んで居るので、車が無いと病院や買い物や仕事に行けない事を知って!

11月24日  福島被災者の仮設住宅は、町から離れて食品や生活用品店、病院が遠く交通の便も悪く、不便な所が多いでした。高台で風の吹きさらしの所も在り、下水処理場の近くで悪臭が強い所や、お墓や火葬場の近くの仮設住宅も在りました。被災者は「最初はお墓が自宅の隣に在るのが嫌だったが、死者に守られて居ると思うと、かえって安らぐ様に成りました。朝はお墓の方々に《私達を守って下さい》と願い、夜は《有り難う!おやすみなさい》と。怖いのは、私達を不幸にする人達です」と。

11月25日  仮設住宅は県の管理に置かれ、町長に託されない為に、町役場は勝手に仮設の人の配分は決められません。どの仮設に何人入居かは県が決め、誰が入るかはくじ引きで決められます。その為に、入居者は見知らぬ初めての人が多く、仮設住宅は4畳半1部屋の所も在り、2部屋以上の所は少なかったので、家族が一緒に住めず、家族、友人、仲間と離れてバラバラとなり、孤独になって鬱病になった人が多いでした。特に若い人は仕事や子供の学校の為に住居を求める事になり、家族が一緒に住めなくなり、父母や祖父母と別れて仮設に残された高齢者は鬱病になった人が多いでした。何故仮設住宅を県は被災者の市町村長に任せないのか?被災者の役場に任せれば、被災者の仲間や家族を離す事なく町毎に同じ仮設に住んで支え合えたのに。被災者の悲しみ、苦しみ、苦情処理も解決出来たのに。やたら国の復興庁が関わると、各庁の横の繋がりが無い為に、被災者は環境省、国土省、、と回され未解決で終わって、被災者は疲れ果て諦めるしかないでした。


11月28日  放射能高く被災地に帰れない人の為に、国は災害公益住宅を造る事と管理の責任を県に任せ増した。その為に仮設の時の様に市町村長は関わる事が出来ません。その為に、くじ引きで当たった被災者は入居の説明会、鍵の引き渡し等、県からの知らせがある度に県が指定した所まで、遠方でも行かねばなりません。病人、足が悪い高齢者は行くに行けなくて諦めた人もいました。しかも自分が入居出来る部屋は前もって判らず、視ることも出来ない為に、カーテンのサイズも皆違うので、前もって買って備える事も出来ず。鍵の引き渡しのお知らせを受けて2週間以内に引っ越さなければならず、鍵を渡されて初めて部屋に入り、辺境な吹きさらしの遠方で不便な事を知って、キャンセルする人も結構いました。ずさんな建て方でも、さんざん待った被災者は、2週間以内に引っ越さなければならず、コンセント以外に何も無い部屋を見て、電球、エアコン、ガス台、カーテン、机、ロッカー、タンス何もかも買い求め、自力で引っ越し屋を探して、全てが自己負担でしなければ成らず、引っ越し後は学校、仕事も探さねば成らず、被災者はさんざんな思いをしても、県の管轄なので苦情を言う所も無く、苦しみを受け入れ、町が違う人同や初対面の人が多く、隔離された中で自殺する人、孤独死が増えたと。


by momofukuoka | 2017-12-04 15:58