2011年3月に発生した福島原発の事故発生後、現在も仮設住宅等での避難生活を強いられている被災地の方々の状況をお伝えすると共に、支援の呼びかけなどを行わせて頂いております。


by momofukuoka
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カテゴリ:福島の被災地の現状( 70 )

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声の抜粋をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です。また支援者の一人が、福岡百子が語る福島の現状を海外に伝える動画をYouTubeにアップしています。そちらもご覧下さい。〉https://www.youtube.com/watch?v=9Y47k_hmFnk
 
 
【被災者の声】
6月8日 福島被災者からの電話が私宅に最近よく来るようになりました。「川内村に帰ったけれど話す人がいなくて寂しくてたまらない。声を聞きたくて電話しました。」「何もする気がおきなくて、疲れて体も動かない、毎日テレビを見てるだけ、テレビを見てても頭に入って来ない、ぼ~と毎日してるだけ」「3ヶ月入院して、2日前に帰って来ました。淋しかった、声を聞きたかった、意識を失っていたのを隣の人が見つけたらしく救急車で運ばれて病院のベッドに寝てて、初めてベッドに寝てる自分に気がついた。このまま死ぬかと思った。入院中寝ながら災害の時からお世話になった皆様を懐かしく想い感謝した。あの時を思うと涙が出てくる。今家に帰って1人です。あの時死んだら良かったのに。又、生きてしまった。声を聞いて、頑張ろうと思う。頑張るね」「国も町も、それは決まったという。 決まった事であっても住民から意見が有ったら、再検討して欲しい。聞く耳を持たない!」
 
6月9日 天皇皇后両陛下が今、福島の被災地を訪問しています。 私は思い出します。2011年に津波で亡くなった方々を。 原発の放射能で汚染された福島原発被災者の方のご遺体は、 立ち入り禁止区域とされて数ヶ月間ご遺体探しに入れませんでした。許可が出て、 祖父と孫を探しに行った方が見たのは、「無残にも ご遺体がミイラ化されて自宅の塀にへばりついている祖父と孫の姿でした。」 原発の悲惨さは、後悔ではすまされない多くの犠牲を歴史に刻んで残しています。今迄の年月だけでなく、これから先、何百年も多くの人に傷をつけ続け、被災者達だけでなく日本全土、世界全土を汚染し続け、自然破壊だけでなく、文明、発展という言葉に踊らされて[心]まで破壊されて行っているようで、私は恐ろしくてなりません。
 
6月10日 昨夜遅く 葛尾村の 被災者から メールがありました。「今月に入って5名が亡くなり、今日も葬儀場から帰ってきたところでした。明日の植樹祭をキャンセルしていたのでお焼香できました。」被災者方は毎日のように 仲間、身内の死者が多く、留守の時は大抵、お通夜か葬式です。楽しい事、嬉しい事が少なく、辛い事、悲しい事 の明け暮れ。その中で必死に耐えてる被災者。これではいくら元気な人でも、病に倒れるのは当たり前ですよね。 電話をすると被災者ほとんどの方が入院した、手術した、死ぬかと思った、との答え。これが被災者の今の現実です。昨夜電話がかかってきた方にもう葬儀が終わったかと思い、再び電話しました。「今、お通夜に向かって運転中です。 明日もまたお通夜です。昨日も今日も毎日お通夜です。このところ突然死が多いです。脳梗塞とか心筋梗塞とか。」
 
6月28日 相馬市の方です。「自宅は高台に在って、津波をかぶってしまったが、住めると思ってありったけの貯金をおろして自宅をリフォームしました。 しかし町には誰も帰って来ないので店も何も無いので生活できない。やむ無く千葉に自主避難した。 自主避難で福島県から出たので支援は何も無い。自宅の土地は買ってくれる人もいない。やむなく処分するため市から買ってもらった。 98坪の土地も家も300万で終わった。 全ての預金をおろして津波後、リフォームした家と先祖代々の土地と財産。 無念でなりません。 2年前に住民票を千葉に移し、やっと近所の人との付き合いに入れてもらえました。 災害からの6年間。 辛くて 苦しく孤独な毎日でした。」
 
大熊町の方。「息子が2年半前に亡くなったけれど、大熊は放射能が高いのでお墓に入れない。部落の区長に言えば、人は放射能で墓参りは行けないけど納骨は出来ると言う。草ぼうぼうで人が行けない所に息子だけを墓に入れて置くのはしのびがたい。だから、私の枕元にお骨箱を置いて私は寝てる。毎日枕元に置くお骨を見ては、可哀想な、誰にも看取られず1人で亡くなった息子を思い、泣いてます。」私は毎年お盆になると、高野山の桜池院の住職に頼んで被災者のご供養を頼みます。昨年は66霊のご供養を頼みました。今年も頼むつもりです。被災者は「安堵した。初めて休めると言います」
 
7月2日  葛尾村の詩人、 小島力さんの寄稿詩から紹介させていただきます。 「1年刻みの」 年間被ばく線量量の限度を、 1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げて、 高濃度の汚染地帯に、 家畜のように追い込まれようとしている、 原発事故被災者。賠償さえ打ち切りにすれば、「後は野となれ山となれ」、 だとしたら被災者は、 裸で捨て置かれるのと同じではないか。 例えば避難指示を解除しても 例えば避難指示の解除を、 1年刻みに先延ばししても、 そこから先の将来は、 まったく見えない、 応急仮設住宅の貸付期間も、税金や医療費の免除も、 そして高速道路の無料期間まで、 何もかにもが1年刻み。 原発事故の被災者は、 くらしの先行きを断ち切られ 細切れの未来しか与えられない、 期限付きの細切れ人生が果たして人生と言えるか。 切れっぱなしの閉ざされた暮らしが、 果たして人間の暮らしと言えるか。果たして俺たちは、 本当に人間であるのか、 気づいてみたらそんな保証はどこにも見当たらなかった。 ([ふあ~む庄野]2016.2.25引用。『避難解除へ抗する詩』3篇)
 
2016年 小島力さんの年賀状から。「原発事故の後始末すら満足にできていない今、加害者が一方的に避難指示を解除し、加害者が勝手に賠償を打ち切るというこの国は、『切捨て御免』の江戸時代とどこが違うのでしょうか。」
小島力さんの著書紹介 『詩集 わが涙滂々 原発にふるさとを追われて』 西田書店 定価1400円+税
 
 
【今朝みた私の夢】
7月4日 私は疲れ果て体も心もぐったりして歩くのもやっと、顔は艶も無く、笑も微笑みも消えた哀れな顔の私でした。長い旅の最後頃にたどり着いて気がついたらある場所に私は入り込んで居ました。そこは大きな全寮制の学校のような大きな会社のような、それぞれに役割を持って働いていて1人1人顔が輝き、幸せいっぱいで、優しく暖かく、どの人に会っても柔らかい雰囲気で私に向き合い、心から接してくださいました。よく視ると、両足が無い課長さん、お1人お1人お体のどこかが欠けたり、悪かったりしてます。しかし誰からもそのことは気にならず忘れて向き合います。私に話しかけてくれた言葉を聞く度、私の古い深い心の傷が1つ1つ癒されて行きます。笑いを忘れてた私、悲しみ苦しみ痛みで微笑みが消えていた私、苦しみが1つ1つ剥がれ、深い傷が癒されて行きます。「ああ、 私は此処にいつまでも居たい、離れたくない!」この世にこんな所が在ったんだ。
 
十字架の道行きに会いました。「あっ、キリスト様の道行だ!」 よく視ると、 行列の先頭は1人の女性です。その直ぐ後ろにキリスト様がついて歩いてます。 女性の顔もキリスト様も穏やかな優しい幸せそうな表情で十字架を担いでおられました。( 目覚まし時計で目が覚めました。 しかしこの夢はしっかり私の心に残りました。神様からの啓示のように思いました。「私の元に来なさい。わたしが休ませてあげよう!」どなたも心病み傷ついています。顔はやつれ心身の艶は失っています。重い十字架を背負っているのはあなた、その直ぐ後からキリスト様が 支えています。 重いけど キリスト様と一緒に笑いましょう。今朝の私が観た夢で悟った事を皆様にお伝えすべきでした。私がたどり着いて癒された大きな会社。それは神様が私達に望まれた本来の地球のあるべき姿、このように[愛と癒しに満ちた人間界にしてください]と。それを目覚めた瞬間に私が悟った事でした。皆様、よろしくお願い致します。
by momofukuoka | 2018-07-10 08:02 | 福島の被災地の現状

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です。また支援者の一人が、福岡百子が語る福島の現状を海外に伝える動画をYouTubeにアップしています。そちらもご覧下さい。https://www.youtube.com/watch?v=9Y47k_hmFnk
 
 
【被災者の声】
5月30日 (浪江町、主婦、1人暮らし)「帰還宣言されて、 7年ぶりに荒れ地の自宅に帰ってきたけれど こんなに大変だとは思わなかった。 店が無いのも困るけど、 病院が無いのには困ってしまった。この間 犬の散歩をして顔から転び、メガネを壊し、顔はお岩さんのように凄い顔なってしまい。病院に行きたくて電話したら、『予約がないと入れない』とどこの病院からも断られ、結局病院に行くことが出来ず、自宅で1人で耐えて治すしかなかった。救急車以外になす術は無いのか?と、これからの事を思うと、帰還をして良かったのか?と悩む」
 
「近くに町営住宅が出来た。しかし知らない人ばかり、人の雰囲気も昔の浪江とは違う、災害前の親しかった心通じあい、助け合い、支えあった仲間。あの人達はどこに行ってしまったのか? 寂しい、どうしたら良いの? 遠くにいる孫が、婆ちゃん1人でいるの淋しいからと子犬をプレゼントしてくれたけど、キャンキャン啼く声が、疲れた心と体になおうるさく感じてたまらない。」
 
5月31日 (南相馬市浦尻、72歳男性1人暮し)浦尻町の平地は町ごと、津波に流され、彼も家を失い、妻も津波に飲み込まれて亡くなられ、今は彼1人で仮設に住んでます。34戸78人の仮設住宅 自治会長として仲間のために尽くして来られた彼ですが、私が1月に電話で話した時は3世帯(母子家庭と同期の男性と彼)だったのが、6月からは彼1人の1世帯になるとか。
 
「平成31年3月迄仮設に居れるので、居れる間は居ようと思う。この頃よく地震が来る。以前は地震の前の音は聞かなかったのに、最近は地震の前に『ゴ~』と音がする、音の後に揺れが来る。5になったら避難しよう」と思う。車が有るからスーパーに買い物に行ける。1人だけど大丈夫だよ。体は丈夫だから病院に行ったこと無いよ!」
 
明るく返事はしたけれど、大丈夫かな? 1人淋しく思うだろうに。津波で無くなった家、奥さんの事、離ればなれの身内の事、聞くに聴けない。食品宅急便しよう。小高区の友に彼を見守って欲しいと電話しました。せめてもの助っ人に、心の寄り添いに。


by momofukuoka | 2018-06-07 07:29 | 福島の被災地の現状

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です。また支援者の一人が、福岡さんが語る福島の現状を海外に伝える動画をYou Tubeにアップしています。そちらもご覧下さい。https://www.youtube.com/watch?v=9Y47k_hmFnk


4月3日 心臓の手術をする人の為にお祈りを皆様にお願いしました。「仮設を取り壊すので3月末日迄、出て行って欲しいと言われ、3月15日、16日の2日かけて、片道1時間半の道を数回かけて楢葉町の我が家に帰って来ました。半分は捨てて来ました。仮設にはもう行けません。同じ部落には2~3世帯しか帰って居ません。日中は工事現場の労働者がうろうろしてますが、夜になると真っ暗です。」「皆様が祈ってくださるので大丈夫。頑張ってね」と伝えると喜んでおられました。皆様お祈りを宜しくお願い致します。

4月16日  皆様、心臓手術をされた被災者の為にお祈りありがとうございました。本人からのメールで「しんどかったですクタクタです。6時間の手術でした。元気で順調です。お祈りありがとうございました感謝しています。」皆様本当に有難うございました。これからも彼のためにお祈りくださいね。

4月13日 90歳過ぎのおばあちゃまで、長い間一人で仮設に避難していた楢葉町の方からお手紙をいただきました。「故郷に帰って参りました。あれから7年も過ぎました。経験したことのない激しい地震と原発事故により、着の身着のままで我が家を追われて、あの日以来不安な毎日でしたが、日が経つにつれて、各方面より多くの方々から物心両面のご支援をいただき、避難生活で結ばれた温かい絆は忘れることが出来ません。感謝致し居ります。誠に有難うございました。」これからが又大変な事でしょう。明日電話をしてみるつもりです。不足品が無いかをたずねてお送りしようと思います。

4月14日 昨日皆様に手紙を紹介した93才のお婆ちゃんに電話をしました。「1人で住んでいる。引越の荷物は毎日ボツボツ片付けてる。病院は歩いて5~10分の所で開業を始めたので大丈夫。店が遠くて、でも電話すれば配達してくれる。東京の息子夫婦が毎週土曜日に来てくれて明日の午後に帰るから1人でも大丈夫よ。100才まで生きなきゃ。仮設に居た時、皆さんに支えていただいたのだから、頑張らなきゃね。大丈夫だよ。」私は被災者の気丈な姿に、私も頑張らなきゃ、と刺激になりましたのと。福島の被災者のけなげな姿といとおしさに、このまま放って良い筈はないと、政府に怒りを感じます。

4月14日 心臓手術した被災者と毎日メールのやり取りが、日課となり、毎日数回続きます。6人部屋で眠れない、風邪を引いて鼻水が出るとのこと。大丈夫か? 術後、未だ2日目なのに?  私にメールをするのも疲れるでしょうに。私以外に居ないのかな? これも福島の被災者の現実です。


by momofukuoka | 2018-05-10 06:57 | 福島の被災地の現状
〈朝日新聞千葉版が福岡百子の活動を取り上げて記事にしてくださいました(3月29日付)。以下、朝日新聞の了解のもとに記事を掲載させていただきます。朝日新聞のデジタルで読むこともできます。
https://digital.asahi.com/articles/ASL355V0FL35UDCB019.html?iref=pc_ss_date
 
 
原発避難者へ物資無償提供 松戸の福岡百子さん
 
東京電力福島第一原発事故で避難し、今なお不便な暮らしを強いられている人たちも多い。少しでも生活の不安を和らげたい――。松戸市の福岡百子さん(76)は事故後、避難所など500カ所以上に食料品や衣類などを無償で送り続けてきた。「体力が続く限り、これからも支援していきたい」と話している。
 
福島県会津若松市で生まれ、高校まで福島県内で過ごした。22歳の時、修道会に入るため上京。シスターとして32年間活動した後、結婚して松戸市に移った。
 
あの日は、自宅にいた。
 
2011年3月11日。巨大地震の激しい揺れと大津波、そして原発事故。テレビや新聞記事で被害の大きさを知るにつけ、故郷を思い、自問した。「福島で生まれ育った人間として何かできないか」
 
ただ、膠原病や胃がんを患い、体力に自信がなかった。治療や定期的な通院が必要で、ボランティアに参加するのも難しい。
 
同年6月、朝日新聞の小さな記事に目がとまった。
 
《昨秋、(福島県の)富岡町で妻と和食の店を開いたばかり。津波と放射能で店は再開できません》
 
福島県大熊町から同県北塩原村に避難した瀬賀浩二さん(66)のことばが記されていた。17年間乗っていた車を大熊町役場前にとめていたが、ようやく持ち帰ることができた、と。
 
「この人を支援したい」。福岡さんは思い立ち、大熊町役場に電話をかけた。役場を通じて瀬賀さんの連絡先を教えてもらい、避難所で必要なものを直接聞いて、下着やパジャマなどを送った。瀬賀さんが福島県いわき市の借り上げ住宅に入居したと聞くと、今度は食器や食料品など日々の暮らしに必要なものを送った。
 
「借り上げ住宅に移った当初は何もなかったので、ありがたかった。涙がとまらなかった」。瀬賀さんの妻、明美さん(60)はそう振り返る。
 
福岡さんはその後、原発事故で避難した人がいる避難所や住宅、福島県内の老人ホーム、幼稚園などを調べて電話をかけ、必要だと聞いたものを送り続けた。活動を知った修道会関係者らが支援を名乗り出てくれたほか、福岡さんは食品や衣類関係の会社に支援を求める手紙を送付。兵庫県の食品販売会社は12年4月以降、これまでに約40回、福島の施設などに物資を送ってくれたという。
 
全国に広がっていった支援の輪。福岡さんは、福井県の支援者の女性から提案され、12年6月からブログ「福島の現実―福岡百子の声」を始めた。避難者から聞いた生活の様子などを日本語と英語でつづっている。「支援に加わらせてほしい」――。ブログを読んだ人から、そんな声も届くという。
 
「首都圏では被災地への関心が薄れている。だからこそ、これからも福島の人に寄り添い、支援を続けていきたい」(滝口信之)
by momofukuoka | 2018-04-17 07:23 | 福島の被災地の現状
〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です〉。
 
3月16日
現在も福島の被災者は大変な状況に在ることを知っていただく為に、被災者の状況をお知らせ致します。7人家族で、夫は単身赴任で東電の仕事。40代の妻は1人で82歳の祖父、長女(知的障害、脳性麻痺、18歳)、3人の男子(16歳、13歳、7歳)の家族を抱えて生活をしてました。原発事故で避難生活が始まり、妻は1人で6人家族を守りながら、転々と避難を繰返し、私がその家族と出会ったのは、会津の仮設暮らしの時でした。避難を始めて1年経ち、夫は原発手帳を持ち、妻はストレスで様々な病いにかかりながらも、肺気腫になった祖父の看護、奇声をあげて動き回る長女、地震恐怖症、拒食障害、登校拒否となった息子の世話。国の都合で仮設から遠い学校に指定され親を離れたくない息子で苦労した日々。仮設は小さく家族一緒に住めない為に、バラバラで生活する苦労。被災者は親子共々半端でない苦労の連続でした。
 
 
3月20日
一部を除いて、福島の被災者は今年の3月末日まで仮設を出なければなりません。後は取り壊すので、強制的です。10日しかありません。楢葉に帰るひとり住まいのある方は、4月11日に心臓手術を前にして、引越しすると言う。私は唖然とし言葉が出ません。帰る自宅の周辺は誰も居ません。荒れて、店も、人も居ません。4時間の心臓手術と言うけれど、入院すると言うけれど、大丈夫か?皆様彼の為に祈ってください。
 
 
4月3日
心臓の手術をする人の為にお祈りを皆様にお願いしました。「仮設を取り壊すので3月末日迄、出て行って欲しいと言われ、3月15日、16日の2日かけて、片道1時間半の道を数回かけて楢葉町の我が家に帰って来ました。半分は捨てて来ました。仮設にはもう行けません。同じ部落には2~3世帯しか帰って居ません。日中は工事現場の労働者がうろうろしてますが、夜になると真っ暗です。」「皆様が祈ってくださるので大丈夫。頑張ってね」と伝えると喜んでおられました。皆様お祈りを宜しくお願い致します。
by momofukuoka | 2018-04-10 06:10 | 福島の被災地の現状

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です〉。


3月7日  3.11が近づくと、放射能汚染で遺体捜しに入れず苦しんだ福島被災者を思い出します。皆様に辛い実話をお伝えしますが、被災者に寄り添っていただき、他の人にもPRしていただきたくお願い致します。「孫は、友達の親戚を浪江町請戸に送る為に、友の車の共として一緒に付いて請戸に行きました。親戚の人を降ろして、友達の祖父母の家に行ったけど不在だったので友とじいちゃん婆ちゃんを探していたら、津波が来て、孫も友も呑み込まれてしまった。私達は身内探しに入りたかったけど、放射能汚染で入れなくなって苦しんだ。やっと入れて探したら、友達とじいちゃんは塀にくっついてミイラの状態になっていた。遺体は傷を受けてなかったと。孫と婆ちゃんの遺体はいまだにみつからない。辛い。」
 
 
3月7日 大熊町男性82歳の言葉。「私が逃げる時に、木にしがみついて助けを求めて叫んでいた人の事が忘れられない。何年過ぎてもその人の事が忘れられない。罪悪感に苛まされる。夢もみるし、安眠、熟睡が出来ない。大熊、双葉、富岡、浜通りで見つからない人は100人以上いる。月命日の毎月11日は警察、消防隊が海岸を掘って遺体探しをしているが。当時、見付けた順から名前が判った。でも遺体は2ヶ月、3ヶ月過ぎると判らなくなる。あ~。今、思い出したくない!」
  
  
3月7日 福島の被災者は放射能汚染の為に、先祖の墓参りや納骨が出来ず、供養が出来ずに辛い思いをしている方が多いです。そこで私は親しくしている和歌山県の高野山、別格本山御室 櫻池院の住職様にお願いをして、供養を望む被災者の方の為に、毎年のお盆にご供養をお願いして参りました。昨年のご供養者は64霊、先祖代々のご供養は2世帯でした。私が電話で被災者と確認して、櫻池院に、名簿、命日、住所を知らせ、お金は支援者の寄付金から、又は自腹でお寺に送金をさせてもらいました。有り難い事に、櫻池院は1霊毎に名前や戒名、命日があるお札を作って下さり、被災者個人宅に送ってくださったので、被災者方は、「やっと安心しました。心の荷が降りました。有り難いです。有り難いです。」と。宗教を越えて、死者の弔いは亡くなられた方にも、遺族にも大切な事かと思います。私は高野山にも被災者の状況を知らせております 
  
  
3月5日 「今、葬式の最中です」「今日も葬儀に行って来ました」あれっ?昨日も葬式と言ってなかったかしら?と不思議に思うほど、被災者に電話すると、「葬儀に」の言葉が多いです。「斎場の方も、今までになく福島の死者が多いと言っていた」と被災者は言います。「仲間もバタバタと死んでいく。これから助け合おうと言ってたのに」「やっと家を建てたのに」「友達が誰も居なくなった、俺も死にたい」被災者のやるせない気持ちをお察しください。苦しみ抜いた7年間の苦悩で人間の限界を超えたのでしょうか?
  
  
3月2日 最近1人で浪江町の自宅に帰った67歳の主婦です。今までは被災者がまわりにいない借り上げ住宅に1人住んで、地元の人達から福島人として冷たい視線にさらされ、友達も出来ず情報も無いために苦しんで様々な病気を抱えてしまった善良な被災者の言葉です。「不便は不便、ものすごく不便です。全ては大変です。庭先にイノシシがいますし、車で40分行かないとお店は無いし、買い物出来ない。病院も無いので、1晩泊まりで病院に行くしかない。寒さは半端でない。花も戴いたアロエも全部枯れてしまった。生活は何をするにも大変です。しかし、いじめ、嫌みから解放された。耳に入らなくなった。初めて熟睡出来るようになった、7年の間熟睡したことが無い、眠剤に頼らず眠れるようになった。人間生まれ変わったような感じです。何をするにも不便です、乗り越えようとすれば乗り越えられる、工夫すれば何とかなると思う、これしかないからこれを食べようと。夜寝れるのが嬉しい。」彼女は67歳なので自分は頑張れると思うのでしょう。しかし私が心配するのは歳と共に弱っていく事です。70歳過ぎると体が動かなくなる事です。帰還宣言で被害者は故郷に帰るでしょう。しかし生活環境が整っておらず、人の気配の無い所で過ごす高齢者は、孤独と病に倒れ惨めな生涯を送る事にはならないでしょうか?国は帰せば良いで責任が終わったとするならばあまりにも無責任ではないでしょうか?
  
  
3月1日 大熊の主婦「大熊は何も無い所だった。戦争中はそこから飛行機が飛び立って行った。その後関東地方の方の爲の電力会社が欲しい、と、双葉郡住民の反対の中で、50年前に原発を作った。爆発してから7年間、我々は強制避難で、住まいを転々とかわり、7~8回、変わった人もいる。いまだに落ち着かず、もう心身疲れ果てた。私も原因解らない病になって寝込むようになり、友達も急にバタバタと死んでいくので、私も生きる力が無くなって、「死にたい!」と思っていたし、皆も「生きて居たくない」と言っている。7年の間中、福島人と判ると冷たい視線と辛辣な言葉、隠れるように生活してたけど、もう疲れ果てた。どうして東電に私達の土地を提供しただけで、いつも爆発の恐怖にかられながら、怯えて生きていた私達が、福島と判っただけで、冷たい視線にさらされ、家族も友達もバラバラとなって。病気になり落ち込んで居ました。久し振りに電話を貰って、元気が出てきました。」


by momofukuoka | 2018-03-09 06:59 | 福島の被災地の現状

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です〉。
 
 
2017年12月13日

福島の被災地に帰還をした被災者の声をお知らせ致します。浪江町の自宅に1人で帰られた60代の主婦。「自宅に帰ったけれど、ここまで酷すぎるとは思わなかった。猪はうろうろしていて怖いので、日が暮れると鍵をしっかり閉めて外に出ないようにしている。店も何も無いのであまりにも生活に困るから、帰った事を後悔して、又戻ろうかと思う。」 南相馬小高区の方。「被災地の自宅に帰ったら、福島民報、福島民友以外の新聞は届けて貰えない。町に買いに行かなければならない。町に出るのも大変です。久しく一般の新聞は読んでいない。私は朝日新聞を災害前にとっていて、ニュース以外もくまなく読んでいたので、福島以外のニュースも知りたいのに。」私「幸い私宅で朝日を取っているので、読んだ後の新聞を送ってあげる。」彼女の家はこうして新聞が届くけど、帰還した被災者には新聞が届かないとは? 国は新聞が届かない事を確認せずに帰すとは? 店も何も無く物騒な危険な所に帰す?
 
 
2018年1月13日

1月5日に双葉町の自治会長さんの情報に、私は驚いて唖然としそこまで被災者を国は虐めるのかと、悲しみと怒りだけでなく、悪魔の仕業でないかと思うようになりました。 「被災者の仮設は今年の3月で終わりとなり、帰還困難区域の一部を除いては仮設が壊されます。被災者の事情がどうであれ、帰還宣言された市町村の被災者の名前は、被災者の数からカットされ、たとえ住めない状況であっても、もう被災者とはみなされず、一般国民と同じく、課税、年金の減額を国から求められています。自分で借家に入った人。放射能が怖く子供の学校の為に引越した人も、国は被災者数から減らしています。帰還宣言された市町村は帰還環境が整っていなくても、被災者数から減らされて被災者復興の資金もないので、住民の辛さが分かっても、国に従わざるを得ないようです。放射線量は以前より民家の高台は高くなっています。とにかく国は被災者を返して原発を忘れさせたいのです。」
 
 

1月21日
双葉町の被災者の言葉を聞いて唖然としました「安倍総理が福島に来る度に最初から私たちにこう言っています。双葉町を日本一の町にする。福島の復興なくして日本の復興はない。だから本格的に今年から双葉町の除染を始める。今年から道路も作り始めました。安倍総理の言葉を私達は信じています。」自民党員被災者は信じてました。彼は続けていいました「福島復興の事を安倍総理が公に言わないのは、日本全国にあらゆる災害被災者が多く、どこも復興を必要としているからです。福島だけに力を入れると、していない所から批判がでるからです。議員にもいろんな人がいるので言えません。福島に来た時だけしか言えないのです。」これまでの原発被災者への7年間の国の対応を見れば、福島の事を真剣に復興しようとしているかどうかは本気度が疑われます。私は福島原発被災者への対応は、国を挙げての殺人行為、じわじわと心身命を縮めて黙って見過ごすことは酷い殺人行為と思う。


by momofukuoka | 2018-01-31 06:46 | 福島の被災地の現状

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です〉。

12月14日

ニュースで「帰還困難区域の大熊と双葉に、初めて国費で(今までは全てを東電の費用だったが)除染をして、住める様にする」の言っているのを聴き、びっくりしました。どちらの町も高放射線量で帰れない数字と、最近の町の情報から知ったばかりでした。しかも初めて国費でするとは、国の下心がはっきり判ります。常識では考えられない事ですが、被災地はどの町も山の除染はしてもらえてません。被災地の除染は、被災者の家の回りだけで、家の中の除染は被災者が自分で雑巾がけをするのみです。「山は除染しないので、雨が降ったり風が吹くと山の放射能は民家に流れて来るので、山をして欲しいと願ったけど、聞いて貰えなかったし、民家の回りの除染も2回しただけなので、不安で堪らないが、帰った我等は死を覚悟しています」と。水素爆発した所の大熊と双葉を国費で除染して帰す事にするとは。被災者のショックはどんなでしょう。皆様、このままではあなたの命も棄てられますよ。


12月16日
双葉町被災者の家族が、私宅を訪ねて来られ双葉町の今を話してくれました。「環境省の人が個人宅を訪ね、中間貯蔵庫の土地交渉を、緑地を作ると偽って許可を求め、近隣には何も言わずいきなり中間貯蔵庫を建ててしまいます。お墓も土葬で盛り上がっている土を削り取って平にし、砕いた石を地均しして墓場一面を平らにしてしまいました。先祖のお骨がどうなったかは分かりません。今ではどこが墓だったのか分かりません。被災者の気持ちなど、どうでもよいみたいです。山はどこも除染していません。雨が降ると放射能が民家に流れ、池には流れた放射能が溜まります。国は池の水の放射能には自然に消えると言って溜まるに任せていて、放射能測定さえしようとしません。」今度、国は双葉町と大熊町を国の費用を投じて除染し帰還させると言うニュースをテレビで聞いたばかりです。被災者は疲れ果てやつれてげっそり顔なので、心労の深さを感じられ胸の痛みと国の怒りを感じた1日でした。私は福島被災者を、何としてでも救うぞと心に誓った1日でした。皆さん、福島被災者を救う為に一致団結して頑張りましょう。そして国の非道さを世界に訴えて日本を私達の力で、神様の力も戴いて変えましょう。国民がこれ以上不幸になってはなりません。皆様の力で変えましょう。


12月27日
仮設を閉鎖して帰還させられた海抜350~700メートルの山村、冬は零下10~8度となり水道も無く、井戸や山水を共同水道とし、水洗トイレも無く、自然豊かだった都路被災者の帰還後の声です。「帰った人は、年取ってお米を作る事が出来ない。お米を作る人が居ないので買わなければならない。この度お米を送って貰って有り難かった。皆で少しずつでも嬉しいので分けあった。皆が喜んでいました。もう今は何も支援が無いので。私はお店を始めてみたけど大変です。食堂を始めてみた人も毎日赤字で、これからどうなるか?」


12月29日
被災地の中には、399号線に沿った海抜350~700メートルの山村、川内村、都路町、葛尾村、津島(浪江町)、飯館村、があります。全部被災地で放射能は北西部に流れ全町村が放射能度の高い汚染地区となりました。しかし20キロ圏内の賠償対象地区とはならない人が多く、裁判を起こしても未だに認められません。冬は零下10度から8度となる山村で、春までは路面が凍りつく為、町の病院や買い物にも行けない3000人ほどの山村です。特別な産業はなく、山菜や川魚を食し、農業畜産林業が主で、水道もなく井戸や山の水を共同水道とし、水洗トイレは無く質素を旨とし、素朴で忍耐強く、愛情溢れ、仲間を大切にし合い、口数が少なく、自分を飾ることも無い、出稼ぎも多い、貧しい山村の方々です。貧しさに慣れてる方々とはいえ賠償金が無くては生活することも出来ません。壊れた家を建て替えるお金もありません。荒れ果てた家に、店も病院もない所に、生活費も無い方々が仮設から出され帰っても、お米さえ作れず、放射能を帯びた野菜、山菜、山の湧き水を飲むしかありません。この方々の住居、田畑、環境、山、川、健康が蝕まれる事に、生活費がない事に、国は責任を取らず放置したままにしておいて、それでも福島は復興したと言えるのでしょうか?


12月30日
携帯に89歳被災者から電話が有りました。川内村の山村の自宅に1人暮らしのお婆さんです。眼が悪く人の顔立ちも判断出来ません。足腰悪く、掴まってやっと立ち上がる状態です。「川内村は、雪が降って寒さが半端でない。水が凍ったら困るので、温かいタオルで巻いて置いたら、朝が来て温かくなったら、水が廊下迄流れてしまってた。それからが大変でした。ありったけのタオルを出して、1人で這いつくばってバケツに何杯も水を絞り出した。もう、疲れはてた。これからが大変です。寒いし、外は滑るし、家の中に隠ろうと思う。春までは大変です。病院に2週間毎に膝の注射に行かないと。」


by momofukuoka | 2018-01-08 17:38 | 福島の被災地の現状

私は、被災者の行く末を案じておりまして、被災者を後継者に委ねて、被災者が安心して頂けます事を願っております。余りにも過酷な被災者の年月です。生き地獄そのものです。国をあげての集団殺害、しかもジワジワと、生活も、住む土地も失わせて、家族もバラバラに引き裂いて、貧困と、病い、孤独、虐め、人権を失わせて、最後には高齢者を動物達の住む荒れ地に帰して、店も病院も無く生活出来ない環境に、「被災者達が、後はしてください」と丸投げされて、資金も援助も無く、おまけに被災者の方には、懐かしい幼い時からの思い出が詰まって、美しく楽しく幸せだった故郷、視るも哀れな悲しい荒れ地と廃墟に化したわが家、祖先が眠る荒れた墓、思い出の場所がみな廃墟に化した姿を見た時の、悲しみとショックの深さは想像を絶するものだったでしょう。せめて、動物の駆除や人が住める環境に整っているべきでしょう。


被災者は言います。


「若者は帰らないのだから、いずれ年寄りは皆死んで、無人の町になる。廃墟になって忘れられていく、原発のことも国民から忘れられて行く。国は最初からそれを予定していたのだと、今それが判った」と。


福島被災者は苦しんで亡くなって行きます。被曝の影響や心労と過酷さで倒れた人が多いです。これは国を挙げての殺人行為ではないでしょうか?


○○様。 どうぞ宜しくお願い申し上げます。


福岡百子     


by momofukuoka | 2017-12-10 06:04 | 福島の被災地の現状

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターでさまざまな想いや、被災者の声をつぶやいております。そのツイートの中から、被災者の声をご紹介していきます。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です。〉


11月9日 原発被災者に寄り添う事が晩年の仕事でしたが、体験した全ての事が、結婚生活、修道生活、終末病棟勤務、癌末期手術体験、虐め体験、子供時代の転勤族、虚弱対質、膠原病、難病、等、全てが福島原発被災者の苦しみを理解するために、苦難の経験ほど役立つことは有りませんでした。

11月9日 福島被災者の仮設住宅は隣の音が丸聞こえで、隣のいびき、トイレットペーパーをちぎる音まで、聞こえていた。隙間風が入り、カビが生え、床も抜けたりして大変な所もありました。「仮設住宅は原則2年もったら良い」とのマニュアルで建設したのでガタが来て当たり前、と日赤の人から聞いてました。2年の応急処置の仮設に7年の年月、被災者は苦境を堪えつつ過ごしました。部屋は1部屋か2部屋で荷物の置き場もありません。窓は1つしかない所や、外を歩く人から丸見えで目と目が合ったと、いう所もありました。悪環境や非道な扱いを被災者は国に訴えましたが、全てを無視されながら、苦しみ抜いた被災者を、今度は放射能で崩壊して住めなくなった荒れ地の被災地に無理やり返そうとして、仮設も壊しています。役場が住民に帰る促しをするために自宅を廻っているとも聞きました。国民も福島への関心は無くなり、誰を頼ったら良いのでしょう? 助けてください!

11月11日 仮設住宅で最初から双葉町の住民を支えておられた自治会長が膵臓癌で亡くなったので、身内でただ1人生存しておられるお姉様に、昨夜電話をしました。「お陰様で双葉町のお墓に納骨して来ました。本人は双葉町に帰りたがっていましたので両親が眠って居る所に一緒に納骨をして来ました。普通は入れない所ですが、許可を求めて行ってきました。以前は帰るのが楽しみな心休まる美しい自然豊かな所でした。今は見る影も無い荒れ地です。皆で耕した畑も、セイタカアワダチ草が4m5mも伸びて、猫柳も3m4mも伸びて、何処か区別がつかない状態で、胸が張り裂けそうでした。昔、先祖達が開墾した時もこんなだったでしょうと、折角私達の為に、町を創ってくれたのに!災害の日から道路1つ作っていない、変わり果てた双葉町の姿に、涙して帰りました。原発は恐ろしい!もう嫌だ!

11月12日 30代男性。原子炉建家が爆発した時に、運悪く、外部から仕事で爆発を知らず中に入ったそうです。多量の放射能を浴びてしまい、寝たきり状態で苦しんで居られるとの事。お母さまが看病をしておられるとの事。「従姉の息子なので、気になるし顔もみたいけど、姿が辛すぎて行けないでいます。未だ30代の若さで何も出来なくなっちゃった。こういう被災者も居るんですよ。と、皆に言いたい。」被災者の言葉です。

11月13日 原発被災者は7年近く、7、8回も引越を繰り返しながら不自由な避難生活を強いられています。「私達は避難したのでなく、故郷を追い出されたのです」と被災者は言います。彼らは7年過ぎた今でも、引っ越し先の住民になることが出来ません。日本では住民票は1人に1つと決まっているからです。その為に被災者は避難先の住民にはなれず、地域の行事、活動、ごみ収集、投票、習い事等参加出来ず、その為白い目で視られ、孤立して友達を作ることができません。就職も住民票が無い為正規社員になれず、仕事を求め単身赴任で除染作業に夫は行き、若い妻は子供を抱えながら1人、世間の厳しい批判に耐えつつ、鬱病となった被災者、我が子が学校で虐められて登校拒否になって1人苦しむ妻も多いです。浪江の馬場町長が、政府に「原発被害は国の責任だから、避難先の住民票も作成して欲しい」と2度国会議事堂に行ったようですが、門前払いされたと聞いております。被災者にとっては被災地の住民票を抜くと、賠償を外されるので途方に暮れてます。


by momofukuoka | 2017-11-17 07:45 | 福島の被災地の現状