2011年3月に発生した福島原発の事故発生後、現在も仮設住宅等での避難生活を強いられている被災地の方々の状況をお伝えすると共に、支援の呼びかけなどを行わせて頂いております。


by momofukuoka
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〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です。また支援者の一人が、福岡さんが語る福島の現状を海外に伝える動画をYou Tubeにアップしています。そちらもご覧下さい。https://www.youtube.com/watch?v=9Y47k_hmFnk


4月3日 心臓の手術をする人の為にお祈りを皆様にお願いしました。「仮設を取り壊すので3月末日迄、出て行って欲しいと言われ、3月15日、16日の2日かけて、片道1時間半の道を数回かけて楢葉町の我が家に帰って来ました。半分は捨てて来ました。仮設にはもう行けません。同じ部落には2~3世帯しか帰って居ません。日中は工事現場の労働者がうろうろしてますが、夜になると真っ暗です。」「皆様が祈ってくださるので大丈夫。頑張ってね」と伝えると喜んでおられました。皆様お祈りを宜しくお願い致します。

4月16日  皆様、心臓手術をされた被災者の為にお祈りありがとうございました。本人からのメールで「しんどかったですクタクタです。6時間の手術でした。元気で順調です。お祈りありがとうございました感謝しています。」皆様本当に有難うございました。これからも彼のためにお祈りくださいね。

4月13日 90歳過ぎのおばあちゃまで、長い間一人で仮設に避難していた楢葉町の方からお手紙をいただきました。「故郷に帰って参りました。あれから7年も過ぎました。経験したことのない激しい地震と原発事故により、着の身着のままで我が家を追われて、あの日以来不安な毎日でしたが、日が経つにつれて、各方面より多くの方々から物心両面のご支援をいただき、避難生活で結ばれた温かい絆は忘れることが出来ません。感謝致し居ります。誠に有難うございました。」これからが又大変な事でしょう。明日電話をしてみるつもりです。不足品が無いかをたずねてお送りしようと思います。

4月14日 昨日皆様に手紙を紹介した93才のお婆ちゃんに電話をしました。「1人で住んでいる。引越の荷物は毎日ボツボツ片付けてる。病院は歩いて5~10分の所で開業を始めたので大丈夫。店が遠くて、でも電話すれば配達してくれる。東京の息子夫婦が毎週土曜日に来てくれて明日の午後に帰るから1人でも大丈夫よ。100才まで生きなきゃ。仮設に居た時、皆さんに支えていただいたのだから、頑張らなきゃね。大丈夫だよ。」私は被災者の気丈な姿に、私も頑張らなきゃ、と刺激になりましたのと。福島の被災者のけなげな姿といとおしさに、このまま放って良い筈はないと、政府に怒りを感じます。

4月14日 心臓手術した被災者と毎日メールのやり取りが、日課となり、毎日数回続きます。6人部屋で眠れない、風邪を引いて鼻水が出るとのこと。大丈夫か? 術後、未だ2日目なのに?  私にメールをするのも疲れるでしょうに。私以外に居ないのかな? これも福島の被災者の現実です。


# by momofukuoka | 2018-05-10 06:57 | 福島の被災地の現状
〈朝日新聞千葉版が福岡百子の活動を取り上げて記事にしてくださいました(3月29日付)。以下、朝日新聞の了解のもとに記事を掲載させていただきます。朝日新聞のデジタルで読むこともできます。
https://digital.asahi.com/articles/ASL355V0FL35UDCB019.html?iref=pc_ss_date
 
 
原発避難者へ物資無償提供 松戸の福岡百子さん
 
東京電力福島第一原発事故で避難し、今なお不便な暮らしを強いられている人たちも多い。少しでも生活の不安を和らげたい――。松戸市の福岡百子さん(76)は事故後、避難所など500カ所以上に食料品や衣類などを無償で送り続けてきた。「体力が続く限り、これからも支援していきたい」と話している。
 
福島県会津若松市で生まれ、高校まで福島県内で過ごした。22歳の時、修道会に入るため上京。シスターとして32年間活動した後、結婚して松戸市に移った。
 
あの日は、自宅にいた。
 
2011年3月11日。巨大地震の激しい揺れと大津波、そして原発事故。テレビや新聞記事で被害の大きさを知るにつけ、故郷を思い、自問した。「福島で生まれ育った人間として何かできないか」
 
ただ、膠原病や胃がんを患い、体力に自信がなかった。治療や定期的な通院が必要で、ボランティアに参加するのも難しい。
 
同年6月、朝日新聞の小さな記事に目がとまった。
 
《昨秋、(福島県の)富岡町で妻と和食の店を開いたばかり。津波と放射能で店は再開できません》
 
福島県大熊町から同県北塩原村に避難した瀬賀浩二さん(66)のことばが記されていた。17年間乗っていた車を大熊町役場前にとめていたが、ようやく持ち帰ることができた、と。
 
「この人を支援したい」。福岡さんは思い立ち、大熊町役場に電話をかけた。役場を通じて瀬賀さんの連絡先を教えてもらい、避難所で必要なものを直接聞いて、下着やパジャマなどを送った。瀬賀さんが福島県いわき市の借り上げ住宅に入居したと聞くと、今度は食器や食料品など日々の暮らしに必要なものを送った。
 
「借り上げ住宅に移った当初は何もなかったので、ありがたかった。涙がとまらなかった」。瀬賀さんの妻、明美さん(60)はそう振り返る。
 
福岡さんはその後、原発事故で避難した人がいる避難所や住宅、福島県内の老人ホーム、幼稚園などを調べて電話をかけ、必要だと聞いたものを送り続けた。活動を知った修道会関係者らが支援を名乗り出てくれたほか、福岡さんは食品や衣類関係の会社に支援を求める手紙を送付。兵庫県の食品販売会社は12年4月以降、これまでに約40回、福島の施設などに物資を送ってくれたという。
 
全国に広がっていった支援の輪。福岡さんは、福井県の支援者の女性から提案され、12年6月からブログ「福島の現実―福岡百子の声」を始めた。避難者から聞いた生活の様子などを日本語と英語でつづっている。「支援に加わらせてほしい」――。ブログを読んだ人から、そんな声も届くという。
 
「首都圏では被災地への関心が薄れている。だからこそ、これからも福島の人に寄り添い、支援を続けていきたい」(滝口信之)
# by momofukuoka | 2018-04-17 07:23 | 福島の被災地の現状
〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です〉。
 
3月16日
現在も福島の被災者は大変な状況に在ることを知っていただく為に、被災者の状況をお知らせ致します。7人家族で、夫は単身赴任で東電の仕事。40代の妻は1人で82歳の祖父、長女(知的障害、脳性麻痺、18歳)、3人の男子(16歳、13歳、7歳)の家族を抱えて生活をしてました。原発事故で避難生活が始まり、妻は1人で6人家族を守りながら、転々と避難を繰返し、私がその家族と出会ったのは、会津の仮設暮らしの時でした。避難を始めて1年経ち、夫は原発手帳を持ち、妻はストレスで様々な病いにかかりながらも、肺気腫になった祖父の看護、奇声をあげて動き回る長女、地震恐怖症、拒食障害、登校拒否となった息子の世話。国の都合で仮設から遠い学校に指定され親を離れたくない息子で苦労した日々。仮設は小さく家族一緒に住めない為に、バラバラで生活する苦労。被災者は親子共々半端でない苦労の連続でした。
 
 
3月20日
一部を除いて、福島の被災者は今年の3月末日まで仮設を出なければなりません。後は取り壊すので、強制的です。10日しかありません。楢葉に帰るひとり住まいのある方は、4月11日に心臓手術を前にして、引越しすると言う。私は唖然とし言葉が出ません。帰る自宅の周辺は誰も居ません。荒れて、店も、人も居ません。4時間の心臓手術と言うけれど、入院すると言うけれど、大丈夫か?皆様彼の為に祈ってください。
 
 
4月3日
心臓の手術をする人の為にお祈りを皆様にお願いしました。「仮設を取り壊すので3月末日迄、出て行って欲しいと言われ、3月15日、16日の2日かけて、片道1時間半の道を数回かけて楢葉町の我が家に帰って来ました。半分は捨てて来ました。仮設にはもう行けません。同じ部落には2~3世帯しか帰って居ません。日中は工事現場の労働者がうろうろしてますが、夜になると真っ暗です。」「皆様が祈ってくださるので大丈夫。頑張ってね」と伝えると喜んでおられました。皆様お祈りを宜しくお願い致します。
# by momofukuoka | 2018-04-10 06:10 | 福島の被災地の現状

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です〉。


3月7日  3.11が近づくと、放射能汚染で遺体捜しに入れず苦しんだ福島被災者を思い出します。皆様に辛い実話をお伝えしますが、被災者に寄り添っていただき、他の人にもPRしていただきたくお願い致します。「孫は、友達の親戚を浪江町請戸に送る為に、友の車の共として一緒に付いて請戸に行きました。親戚の人を降ろして、友達の祖父母の家に行ったけど不在だったので友とじいちゃん婆ちゃんを探していたら、津波が来て、孫も友も呑み込まれてしまった。私達は身内探しに入りたかったけど、放射能汚染で入れなくなって苦しんだ。やっと入れて探したら、友達とじいちゃんは塀にくっついてミイラの状態になっていた。遺体は傷を受けてなかったと。孫と婆ちゃんの遺体はいまだにみつからない。辛い。」
 
 
3月7日 大熊町男性82歳の言葉。「私が逃げる時に、木にしがみついて助けを求めて叫んでいた人の事が忘れられない。何年過ぎてもその人の事が忘れられない。罪悪感に苛まされる。夢もみるし、安眠、熟睡が出来ない。大熊、双葉、富岡、浜通りで見つからない人は100人以上いる。月命日の毎月11日は警察、消防隊が海岸を掘って遺体探しをしているが。当時、見付けた順から名前が判った。でも遺体は2ヶ月、3ヶ月過ぎると判らなくなる。あ~。今、思い出したくない!」
  
  
3月7日 福島の被災者は放射能汚染の為に、先祖の墓参りや納骨が出来ず、供養が出来ずに辛い思いをしている方が多いです。そこで私は親しくしている和歌山県の高野山、別格本山御室 櫻池院の住職様にお願いをして、供養を望む被災者の方の為に、毎年のお盆にご供養をお願いして参りました。昨年のご供養者は64霊、先祖代々のご供養は2世帯でした。私が電話で被災者と確認して、櫻池院に、名簿、命日、住所を知らせ、お金は支援者の寄付金から、又は自腹でお寺に送金をさせてもらいました。有り難い事に、櫻池院は1霊毎に名前や戒名、命日があるお札を作って下さり、被災者個人宅に送ってくださったので、被災者方は、「やっと安心しました。心の荷が降りました。有り難いです。有り難いです。」と。宗教を越えて、死者の弔いは亡くなられた方にも、遺族にも大切な事かと思います。私は高野山にも被災者の状況を知らせております 
  
  
3月5日 「今、葬式の最中です」「今日も葬儀に行って来ました」あれっ?昨日も葬式と言ってなかったかしら?と不思議に思うほど、被災者に電話すると、「葬儀に」の言葉が多いです。「斎場の方も、今までになく福島の死者が多いと言っていた」と被災者は言います。「仲間もバタバタと死んでいく。これから助け合おうと言ってたのに」「やっと家を建てたのに」「友達が誰も居なくなった、俺も死にたい」被災者のやるせない気持ちをお察しください。苦しみ抜いた7年間の苦悩で人間の限界を超えたのでしょうか?
  
  
3月2日 最近1人で浪江町の自宅に帰った67歳の主婦です。今までは被災者がまわりにいない借り上げ住宅に1人住んで、地元の人達から福島人として冷たい視線にさらされ、友達も出来ず情報も無いために苦しんで様々な病気を抱えてしまった善良な被災者の言葉です。「不便は不便、ものすごく不便です。全ては大変です。庭先にイノシシがいますし、車で40分行かないとお店は無いし、買い物出来ない。病院も無いので、1晩泊まりで病院に行くしかない。寒さは半端でない。花も戴いたアロエも全部枯れてしまった。生活は何をするにも大変です。しかし、いじめ、嫌みから解放された。耳に入らなくなった。初めて熟睡出来るようになった、7年の間熟睡したことが無い、眠剤に頼らず眠れるようになった。人間生まれ変わったような感じです。何をするにも不便です、乗り越えようとすれば乗り越えられる、工夫すれば何とかなると思う、これしかないからこれを食べようと。夜寝れるのが嬉しい。」彼女は67歳なので自分は頑張れると思うのでしょう。しかし私が心配するのは歳と共に弱っていく事です。70歳過ぎると体が動かなくなる事です。帰還宣言で被害者は故郷に帰るでしょう。しかし生活環境が整っておらず、人の気配の無い所で過ごす高齢者は、孤独と病に倒れ惨めな生涯を送る事にはならないでしょうか?国は帰せば良いで責任が終わったとするならばあまりにも無責任ではないでしょうか?
  
  
3月1日 大熊の主婦「大熊は何も無い所だった。戦争中はそこから飛行機が飛び立って行った。その後関東地方の方の爲の電力会社が欲しい、と、双葉郡住民の反対の中で、50年前に原発を作った。爆発してから7年間、我々は強制避難で、住まいを転々とかわり、7~8回、変わった人もいる。いまだに落ち着かず、もう心身疲れ果てた。私も原因解らない病になって寝込むようになり、友達も急にバタバタと死んでいくので、私も生きる力が無くなって、「死にたい!」と思っていたし、皆も「生きて居たくない」と言っている。7年の間中、福島人と判ると冷たい視線と辛辣な言葉、隠れるように生活してたけど、もう疲れ果てた。どうして東電に私達の土地を提供しただけで、いつも爆発の恐怖にかられながら、怯えて生きていた私達が、福島と判っただけで、冷たい視線にさらされ、家族も友達もバラバラとなって。病気になり落ち込んで居ました。久し振りに電話を貰って、元気が出てきました。」


# by momofukuoka | 2018-03-09 06:59 | 福島の被災地の現状

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です〉。
 
 
2017年12月13日

福島の被災地に帰還をした被災者の声をお知らせ致します。浪江町の自宅に1人で帰られた60代の主婦。「自宅に帰ったけれど、ここまで酷すぎるとは思わなかった。猪はうろうろしていて怖いので、日が暮れると鍵をしっかり閉めて外に出ないようにしている。店も何も無いのであまりにも生活に困るから、帰った事を後悔して、又戻ろうかと思う。」 南相馬小高区の方。「被災地の自宅に帰ったら、福島民報、福島民友以外の新聞は届けて貰えない。町に買いに行かなければならない。町に出るのも大変です。久しく一般の新聞は読んでいない。私は朝日新聞を災害前にとっていて、ニュース以外もくまなく読んでいたので、福島以外のニュースも知りたいのに。」私「幸い私宅で朝日を取っているので、読んだ後の新聞を送ってあげる。」彼女の家はこうして新聞が届くけど、帰還した被災者には新聞が届かないとは? 国は新聞が届かない事を確認せずに帰すとは? 店も何も無く物騒な危険な所に帰す?
 
 
2018年1月13日

1月5日に双葉町の自治会長さんの情報に、私は驚いて唖然としそこまで被災者を国は虐めるのかと、悲しみと怒りだけでなく、悪魔の仕業でないかと思うようになりました。 「被災者の仮設は今年の3月で終わりとなり、帰還困難区域の一部を除いては仮設が壊されます。被災者の事情がどうであれ、帰還宣言された市町村の被災者の名前は、被災者の数からカットされ、たとえ住めない状況であっても、もう被災者とはみなされず、一般国民と同じく、課税、年金の減額を国から求められています。自分で借家に入った人。放射能が怖く子供の学校の為に引越した人も、国は被災者数から減らしています。帰還宣言された市町村は帰還環境が整っていなくても、被災者数から減らされて被災者復興の資金もないので、住民の辛さが分かっても、国に従わざるを得ないようです。放射線量は以前より民家の高台は高くなっています。とにかく国は被災者を返して原発を忘れさせたいのです。」
 
 

1月21日
双葉町の被災者の言葉を聞いて唖然としました「安倍総理が福島に来る度に最初から私たちにこう言っています。双葉町を日本一の町にする。福島の復興なくして日本の復興はない。だから本格的に今年から双葉町の除染を始める。今年から道路も作り始めました。安倍総理の言葉を私達は信じています。」自民党員被災者は信じてました。彼は続けていいました「福島復興の事を安倍総理が公に言わないのは、日本全国にあらゆる災害被災者が多く、どこも復興を必要としているからです。福島だけに力を入れると、していない所から批判がでるからです。議員にもいろんな人がいるので言えません。福島に来た時だけしか言えないのです。」これまでの原発被災者への7年間の国の対応を見れば、福島の事を真剣に復興しようとしているかどうかは本気度が疑われます。私は福島原発被災者への対応は、国を挙げての殺人行為、じわじわと心身命を縮めて黙って見過ごすことは酷い殺人行為と思う。


# by momofukuoka | 2018-01-31 06:46 | 福島の被災地の現状