2011年3月に発生した福島原発の事故発生後、現在も仮設住宅等での避難生活を強いられている被災地の方々の状況をお伝えすると共に、支援の呼びかけなどを行わせて頂いております。


by momofukuoka
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福島の現実―福岡百子の声

〈福岡百子は、体調の許す限り被災者と対話をし、その声を世の中に伝えていきたいと望み、ツイッターで被災者の声をつぶやいております。ツイートの中から被災者の声をご紹介します。ツイッターアカウントは「もとシスター人生体験」です〉。


3月7日  3.11が近づくと、放射能汚染で遺体捜しに入れず苦しんだ福島被災者を思い出します。皆様に辛い実話をお伝えしますが、被災者に寄り添っていただき、他の人にもPRしていただきたくお願い致します。「孫は、友達の親戚を浪江町請戸に送る為に、友の車の共として一緒に付いて請戸に行きました。親戚の人を降ろして、友達の祖父母の家に行ったけど不在だったので友とじいちゃん婆ちゃんを探していたら、津波が来て、孫も友も呑み込まれてしまった。私達は身内探しに入りたかったけど、放射能汚染で入れなくなって苦しんだ。やっと入れて探したら、友達とじいちゃんは塀にくっついてミイラの状態になっていた。遺体は傷を受けてなかったと。孫と婆ちゃんの遺体はいまだにみつからない。辛い。」
 
 
3月7日 大熊町男性82歳の言葉。「私が逃げる時に、木にしがみついて助けを求めて叫んでいた人の事が忘れられない。何年過ぎてもその人の事が忘れられない。罪悪感に苛まされる。夢もみるし、安眠、熟睡が出来ない。大熊、双葉、富岡、浜通りで見つからない人は100人以上いる。月命日の毎月11日は警察、消防隊が海岸を掘って遺体探しをしているが。当時、見付けた順から名前が判った。でも遺体は2ヶ月、3ヶ月過ぎると判らなくなる。あ~。今、思い出したくない!」
  
  
3月7日 福島の被災者は放射能汚染の為に、先祖の墓参りや納骨が出来ず、供養が出来ずに辛い思いをしている方が多いです。そこで私は親しくしている和歌山県の高野山、別格本山御室 櫻池院の住職様にお願いをして、供養を望む被災者の方の為に、毎年のお盆にご供養をお願いして参りました。昨年のご供養者は64霊、先祖代々のご供養は2世帯でした。私が電話で被災者と確認して、櫻池院に、名簿、命日、住所を知らせ、お金は支援者の寄付金から、又は自腹でお寺に送金をさせてもらいました。有り難い事に、櫻池院は1霊毎に名前や戒名、命日があるお札を作って下さり、被災者個人宅に送ってくださったので、被災者方は、「やっと安心しました。心の荷が降りました。有り難いです。有り難いです。」と。宗教を越えて、死者の弔いは亡くなられた方にも、遺族にも大切な事かと思います。私は高野山にも被災者の状況を知らせております 
  
  
3月5日 「今、葬式の最中です」「今日も葬儀に行って来ました」あれっ?昨日も葬式と言ってなかったかしら?と不思議に思うほど、被災者に電話すると、「葬儀に」の言葉が多いです。「斎場の方も、今までになく福島の死者が多いと言っていた」と被災者は言います。「仲間もバタバタと死んでいく。これから助け合おうと言ってたのに」「やっと家を建てたのに」「友達が誰も居なくなった、俺も死にたい」被災者のやるせない気持ちをお察しください。苦しみ抜いた7年間の苦悩で人間の限界を超えたのでしょうか?
  
  
3月2日 最近1人で浪江町の自宅に帰った67歳の主婦です。今までは被災者がまわりにいない借り上げ住宅に1人住んで、地元の人達から福島人として冷たい視線にさらされ、友達も出来ず情報も無いために苦しんで様々な病気を抱えてしまった善良な被災者の言葉です。「不便は不便、ものすごく不便です。全ては大変です。庭先にイノシシがいますし、車で40分行かないとお店は無いし、買い物出来ない。病院も無いので、1晩泊まりで病院に行くしかない。寒さは半端でない。花も戴いたアロエも全部枯れてしまった。生活は何をするにも大変です。しかし、いじめ、嫌みから解放された。耳に入らなくなった。初めて熟睡出来るようになった、7年の間熟睡したことが無い、眠剤に頼らず眠れるようになった。人間生まれ変わったような感じです。何をするにも不便です、乗り越えようとすれば乗り越えられる、工夫すれば何とかなると思う、これしかないからこれを食べようと。夜寝れるのが嬉しい。」彼女は67歳なので自分は頑張れると思うのでしょう。しかし私が心配するのは歳と共に弱っていく事です。70歳過ぎると体が動かなくなる事です。帰還宣言で被害者は故郷に帰るでしょう。しかし生活環境が整っておらず、人の気配の無い所で過ごす高齢者は、孤独と病に倒れ惨めな生涯を送る事にはならないでしょうか?国は帰せば良いで責任が終わったとするならばあまりにも無責任ではないでしょうか?
  
  
3月1日 大熊の主婦「大熊は何も無い所だった。戦争中はそこから飛行機が飛び立って行った。その後関東地方の方の爲の電力会社が欲しい、と、双葉郡住民の反対の中で、50年前に原発を作った。爆発してから7年間、我々は強制避難で、住まいを転々とかわり、7~8回、変わった人もいる。いまだに落ち着かず、もう心身疲れ果てた。私も原因解らない病になって寝込むようになり、友達も急にバタバタと死んでいくので、私も生きる力が無くなって、「死にたい!」と思っていたし、皆も「生きて居たくない」と言っている。7年の間中、福島人と判ると冷たい視線と辛辣な言葉、隠れるように生活してたけど、もう疲れ果てた。どうして東電に私達の土地を提供しただけで、いつも爆発の恐怖にかられながら、怯えて生きていた私達が、福島と判っただけで、冷たい視線にさらされ、家族も友達もバラバラとなって。病気になり落ち込んで居ました。久し振りに電話を貰って、元気が出てきました。」


by momofukuoka | 2018-03-09 06:59 | 福島の被災地の現状